1984年1月22日 冬の山陰路を走っていたキハ28・58系急行列車

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  • Опубликовано: 2 фев 2025

Комментарии •

  • @龍衣川
    @龍衣川 2 года назад

    急行だいせん1号、浜田・大社 行。いいですね。山陰方面の急行DCとしては、2両ユニットを基調にしていたという意味で山陰では稀有な急行DCの編成だったのかもしれませんね。その1年前の1983年の時刻表によると、前の4両(2両ユニット+2両ユニット)が浜田行、グリーン車を含む次の3両が大社行(出雲市~大社は普通列車に)、その次の2両が米子行、つまりは米子で後ろ2両を切り離し。その計9両編成が、しっかり撮影されているのを見れてよかったです。大阪発車時は、11両編成で、豊岡で後ろ2両を切り離し、香住では9両編成ということなんでしょうね。増解結、分割、併合を行う(ダイヤにおける)多層階、つまり2階建て、3階建て列車と呼ばれることもありましたが、このDC急行だいせん1号、大阪発、福知山線経由、浜田・大社行は、国鉄の増解結、分割併合ありでのダイヤ編成の技術力の象徴的存在であったかのようにも思えてしまいます。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  2 года назад

      なるほどね!
      当時は、私は何も考えずに、こういうダイヤなんだ!
      と、ごく当たり前のように思って撮影していましたが、深く考えると、おっしゃる通りですね。
      このキハ25,58系には、中間車は無く、グリーン車以外は全て先頭車だったので、このような運行が出来たのでしょうね。
      それから、電車急行には無い、運用、気動車ならではの運用だったのでしょうね。
      電車急行にはビュッフェつまりサハシ153とかが、有ったけど、気動車急行にはそれが無かったのも、
      この様な運用を考えて、作らなかったのかな?

  • @akiomatsumoto7923
    @akiomatsumoto7923 2 года назад

    暗く寂しい、という感じですね。

  • @jxfds369
    @jxfds369 9 лет назад +2

    以前にもお話しさせていただいたことがありましたが、
    ウチの母方の祖母の実家の最寄駅が浜坂で、その弟妹らが住んでいるのが香住なので
    『但馬』『だいせん』は本当に。
    夏休みやお盆なんかで、ウチのオヤジがいっしょでその香住まで遊びに行くと
    一度『まつかぜ4号』のグリーンに帰りに乗せてもらったことがありましたが(あとそれと、一度だけ20系時代の『だいせん5号』の自由席に乗せてもらったことがありましたが)だいたい行き帰りともに『はまかぜ』か『だいせん』のグリーン車、
    母親だけがいっしょだと『はまかぜ』の自由席で・・・でしたが、
    たいてい夏休みに入るとすぐ、小学校一年からもう一人で香住には行っていたので
    そのときは『だいせん』か『但馬』の自由席でした。
    今でこそあのボックス席に座ると、180cmで100キロある体型なので
    他の人と相席になろうものなら「なんと!!窮屈な」と感じてしまうのですが、
    あの頃は、ほんと広々と感じました。
    『だいせん』は単独での編成でしたが、
    『但馬』は『みまさか』と『みささ』も併結していたりしていたでしょうか。
    姫路で切り離したり、増結したり、また豊岡で切り離したり増結したり・・・。
    大阪―姫路間は10数両編成で走ってたときもあったように記憶しています。
    夏の繁忙期なんかに乗ると、デッキのところから通路のところまで
    新聞紙を敷いて、お土産の荷物たくさんに地べたに座ってる乗客で
    あふれかえってたのを今でも鮮明に覚えています。
    私が子どもの頃でも香住で『まつかぜ』『はまかぜ』『あさしお』『出雲』『いなば』、
    『だいせん』『白兎』『但馬』、夏では『但馬ビーチ』、それに『山陰』という
    優等列車やそれに準ずる列車が数々走り、本当に賑やかなものでした。
    それが今では通常期3両編成、繁忙期6両編成の『はまかぜ』が3往復するだけで
    あとは、ワンマン化した2両編成程度の普通気動車が何本か通るだけになってしまって。。。
    つくづく、いい時代だったなぁ・・・と思います。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  9 лет назад +1

      jxfds369 さん メッセージありがとうございます。
      私は、昔鳥取に住んでいて、親戚が大阪だったので、鳥取から大阪まで、みささ や 但馬 によく乗りました。
       ただ、鳥取に住んでいた当時は、特急は、まつかぜ1往復だけだったので、乗る事は無かったのです。
      でも、おっしゃるように、繁忙期の込み具合は、すごいものですね。まるで都会の通勤電車なみのぎゅうぎゅうの満員になるのを覚えています。
      小学校の高学年には、奈良に引っ越しで近鉄沿線になり、国鉄とは無縁になってしまったのですが、たまたま大阪駅に行った時、冬だったのですが、急行みささが大阪駅に到着したのを、見た事があります。
      キハ58系で12輌くらいつないでいたように思います。
      そして、何よりも印象的なのは、窓の外にカニを一杯ぶら下げていたのです。
      車内は、暖房でカニが腐るので、みんな窓の外に土産のカニを吊るしているのでした。
      今は、特急でも3輌か、6輌ですか?
      車社会に押されて利用者が減っているのですね。
      道路は、高速道路がどんどんできて、片側2車線のバイパスがどんどん出来て、進歩するのに、鉄道は、昔のまま、狭軌でスピードが出せない鉄道のまま。これでは、利用者も車の方が便利 と言う事になりますね。
      福知山線や、山陰本線の保津峡が新しいトンネルで線形改良されましたが、あのような改良がほとんどの線路で必要なでは、ないでしょうか。

    • @jxfds369
      @jxfds369 9 лет назад +1

      国鉄時代の鉄道ファン さん
      私はもっぱら、夏休みにばかり香住へ行ってて、冬休みには2~3度ほどしか行ったことがなかったのでその冬の"カニ"の光景は見たことがないのですが、へーっ、そんな窓の外にぶら下げてたりもしてたのですね。
      宅配便発送網が発達し、低価格化した現代では自分でまるで行商人のように荷物を持って列車に乗ることもなくなりましたし、何より、ほとんどの優等列車では窓が密閉化されてしまいましたから、今となっては、時代を映す光景でしょうね。
      窓が開かなくなり、その地その地の土地の匂いが嗅げなくなり、空気を感じられなくなり、窓越しに駅弁の売り子さんが消え・・・また駅で、そんな荷物を運んでくれた赤帽さんも消え・・・。
      不便な時代でもありましたが、それぞれの人同士の距離感が近い時代、良くも悪くも互いが互いを許容し合わなければ生きられない時代でもありましたね。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  9 лет назад +1

      jxfds369 さん メッセージありがとうございます。
      まったくその通りですね。
      今では、冷暖房が行き届き、北陸本線なんかでは、窓は当然開ける事も出来ますが、1車両に数か所だけで、ほとんど、窓を開ける事が出来ない。
       そして、まだおまけがあります。
      521系を始め、北陸本線のローカル用の車両は、車内温度を保つため、ドア横の「開ける」のボタンを押さない限り、ドアーすら開かないのです。乗客も、冷暖房中は、乗降客が途切ると、お客が、ドアーを閉めています。
      駅弁の話もありましたが、サンダーバードやしらさぎなんかは、車内販売すら廃止されました。
      まあ、これからは、これが普通と思う世代の人が増えてくるのかもしれませんね。
      余談ですが、冬、東京の京王線の電車で、北野駅に長時間停車していた時、同じ北陸の同僚とドアーの近くに立っていて、私が、
      「寒いな!閉める のボタン無いのか!」
      って言ったら、その北陸の同僚に
      「田舎もん!」
      ってバカにされてしまいました(笑)

    • @あずみん-v4t
      @あずみん-v4t 8 месяцев назад +1

      もう50年前浜坂の親戚まで海水浴に行きました。行きは但馬号帰りはまつかぜでした。もうこんな長距離列車はありません。本当に残念でした。

  • @Bouquetfragrance1
    @Bouquetfragrance1 10 лет назад +2

    冬の山陰路を走っていた急行列車の映像ですね、上手に撮影されておりますよ、国鉄時代の鉄道ファンさん、気に入りました、お見事です。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  10 лет назад +1

      メッセージありがとうございます。
      この時代も、まだまだ下手な取り方してましたが、まあ気合入ってたのかな(笑)

  • @bulldog6759
    @bulldog6759 6 лет назад

    なつかしい急行気動車ですね。
    福知山から山陰方面は、小学生の頃行き、このような急行列車や旧型客車の普通列車に乗ったので思い入れがあります。
    特に、気動車の急行は、グリーン車以外は運転台付きの車両で、それなのに長大編成を組んでいる列車には興奮したものです。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  6 лет назад

      メッセージありがとうございます。
      私が高校、大学時代は、キハ28・58系が当たり前でしたのに、今では懐かしい車両になってしまったのですね。
      キハ28・58は、グリーン車以外は中間車は無く、全てが先頭車でした。
      またキハ53だったかな?両運転台の車両もありました。

  • @goh1123
    @goh1123 10 лет назад +1

    和田山から城崎あたりまで、気動車急行王国でしたね。京都から「丹後」「白兎」大阪からは、映像にもありました「だいせん」「丹波」大阪、姫路から播但線経由の「但馬」、場所は山陰線からかなり離れていますが、大阪から姫新線へ入る「みささ」「みまさか」、この時代大阪駅へ行くと必ずキハ58系急行が当たり前のように見られました。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  10 лет назад +2

      メッセージありがとうございます。
      そうですね、私は昔子どもの頃姫新線沿線に住んでいたので、急行みささ、みまさかは、懐かしいです。
       昔は、まだキハ55が多かった時代に、みまさかが、キハ58、みささは55だったのです。子どもなりに、微妙な違いに興味を持っていました。
      私も大阪で山陰から来た急行を見た事があります。
      山陰からやって来たキハ58や55は、冬なんかは、窓からカニの土産がいっぱいぶら下がっていたのを見たことがあります。父親は、
      「車内が温かくなるから、ああやって外にぶら下げておかないと腐ってしまうからや!」
      って言ってました。
       車内が温かくなる・・・・冬、長距離列車をイメージできる言葉ですね。
      窓が開く急行ならではの事ですね。

  • @Dennis07021
    @Dennis07021 9 лет назад +1

    近頃の山陰線は面白くなくなりましたね。電化後は保津峡も見えない、大好きなキハ58系、キハ82系、キハ181系も今は無く寂しいの一言です。キロ28系も含めた9両編成のキハ58系急行列車は旅情を誘い最高でした。空いている時にボックスシートを占領して弁当を食べる、全開した窓からは、ゆっくりと移り行く車窓を眺めながら聴く独特のエンジン音、車内放送時に流れる「アルプスの牧場」のメロディー全て遠い過去の思い出になりました。JR化後に新製された車両は実用一点張りで面白みに欠けますね。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  9 лет назад +1

      Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。おっしゃる通りですね。
      私も、この時代から久しく山陰へは行っていませんが、余部鉄橋も新しくなり、ずいぶん風変りしたと思います。今度行ったら浦島太郎になっているかもね。
      全開にした窓から、独特のエンジン音ともう一つ、排気ガスの匂いが旅情を感じます。

    • @Dennis07021
      @Dennis07021 9 лет назад +1

      国鉄時代の鉄道ファン そうでした、排気ガスの匂いがありましたね。キハ58に乗ると何故か舟木一夫のヒットソング「修学旅行」を口ずさみます。一人旅の時は私だけの修学旅行気分に浸れます。近年は線路脇に立って通過する列車に手を振る子供(幼少時代の私はその一人)を見かけませんが、1984年頃はまだ見かけましたね。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  9 лет назад +1

      Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。最近、廃止になったトワイライトエクスプレスが通過すると、あの懐かしい排気ガスの匂いがして、懐かしさを感じました。
      修学旅行は、私は、中学校の修学旅行は、新幹線と観光バスで、高校時代は、船と観光バスでした。なぜか、在来線のキハ58なんかには、縁がなかったのですね。
      幼少時は、鳥取駅構内に入って、1日に1本の特急まつかぜが来たら手を振ったりしたのですが、運転助手に「こらー」って叱られました。
      当然、今なら考えられない所に入っていたのですから。
      まあ、今の線路脇は、柵とかが有って、鉄道はちょっと親しみにくくなっているようにも思います。そんな事もあって、手を振る子どもがいなくなってきたのでは、ないでしょうか。

  • @くまおの友達-n7i
    @くまおの友達-n7i 10 лет назад +1

    この急行列車は福知山のおばあちゃん家に行くときは大体これに乗っていました。京都からは確か丹波、丹後って名前の急行でした、当時車内販売があった時、瓶のコーヒーを飲んだ記憶があります。これももう一度乗りたい 北海道辺りでまだ走ってないかな

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  10 лет назад +1

      北海道ですか?
      今は、どういうわけか、路線も少なくなって、宗谷本線には、スーパー宗谷、函館本線は、スーパー北斗と普通の北斗、根室本線、石勝線には、スーパーとかちなどが走っているのですが、キハ56系は、あまり走っていないようです。
      北海道は、とかく、「スーパー」を付けないと、気が済まないようで・・・・・
      「コンビニ」では、だめなようですね。

  • @kz143520
    @kz143520 10 лет назад +1

    旅って、いいですよね。
    母親が浜田の出身なので、
    181系のおきや、くにびきなど乗せてもらいました。 
    速達性も重要ですし、効率化や時代背景をみても、DCやPCが消えるのは仕方がないのは承知してますが、やはりまた、どこかでリバイバルしてもらいたいですね。
    若輩者が失礼しました。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  10 лет назад +1

      メッセージありがとうございます。
      浜田出身の母親がおられるのですか。
      私のチャンネルを見てくれる人って、山陰出身とか、山陰に縁のある方が多いようです。
       時代の流れでしかたがないと言えば仕方がないのかも知れませんね。
      でも、当時の思い出をこんな悪い画質ですが、少しでも見ていただけたらと思います。

  • @HURAFULAHITORI
    @HURAFULAHITORI 10 лет назад +3

    急行型はいいですね。

    • @HobbyVideos
      @HobbyVideos  10 лет назад +1

      メッセージありがとうございます。
      そうですね。昔はこのボックスシートが急行用だったのです。
      特に昔の山陰本線は、
      普通は旧型客車
      急行はキハ28・58・26・55系
      だったのです。
      でも、旧型客車の急行もありました。
      こんな列車に乗ると旅をしてるって感じがします。